熊猫日誌

熊猫の記憶の物置

母との旅行。

X(旧TWITTER)で見かけたのは、老母を連れてバリに家族旅行に行ったというエッセイ漫画。お母様が行きたがっていたらしい。羨ましく、且つほっこりした。

私は母と2回、ふたりで中国旅行をしたことがある。
母は旅行が好きな人だった。
海外に行ったのも、家族で一番早かった。職場のお友だちとロサンゼルスに行ったのは、35年ほど前だったか。その後友人たちと韓国にも行ってる。

最初に行ったのは1993年。中国の西安と北京2泊3日の旅。確かJTBのパック旅行。
すでに社会人だった私は、この春から職場近くにある中国語教室に通い始めていた。そうなると、現地で使いたくなる。だから夏休みに一人で行ってみようと思っていた。
ところがここで母から物言いがついた。

「女の子の海外一人旅は危ない!」

もっともなんだけどさ。“女の子”って、すでに成人しているわけだし、こんなでかくて不愛想な日本人、誰も近づいてこねえよ。お金持ってそうに見えないだろうし、ビビりだから変なとこには行かないし。でも母は聞きやしない。ダメだ一人じゃダメだの一点張り。そして、言い出した。
「それでも行きたいと言うなら、仕方ないから私も行くわ!」

......自分も行きたいだけじゃん。

元々ひとりで行くにしても、パック旅行を申し込むつもりだった。だからまずは北京と決めて、あとは予算や時期などを考えて西安・北京のツアーにした。

日常では小言ばかりで鬱陶しいとさえ思う母だけど(実際合わないことも多くて、うまく表現できない感情もある)、旅行ではどうかと言うと、テキパキとして実にイイ同行者だった。意外にも。短い期間だったから、というのもあるかもだけど。

私よりも行動力があった。西安の朝は早くに叩き起こされて、朝食前に周辺の朝市に行って青リンゴを買った。酸っぱいリンゴが好きだから、バスから見かけて食べてみたかったんだって。「ほら、通訳してっ」て値引き交渉させられたり。
当時母はまだ52歳。足腰も元気で、西安の大雁塔や兵馬俑万里の長城も自分の足で歩けた。「脂っこーい!」と文句いいながらも、食事も平らげていたし。

 

天安門広場にて。母はずっとショートで、私は髪を伸ばしてソバージュにしていた。52歳と25歳。


2回目はそれから4~5年後。正確な時期は忘れたけど、3月でまだ肌寒い時期。
新聞とかによくパックツアーの宣伝が載ってるけど、それでいいツアーを見つけたから一緒に行こうって誘われた。蘇州・無錫・南京・上海の、3泊4日の旅。
この時も、実にイイ同行者だった。他のツアー参加者に、「娘を誘ったら、ついて来てくれたんですよ~」と自慢してたのが聞こえて、ちょっと照れくさかったりして。
南京のホテルの近くに小売店があって、夜にそこにビールやらお菓子を買いに行った。母はスーパードライが好きで、それらは輸入啤酒(ビール)としてちょっとお高めで売られてたっけな。それと私が飲む青島を買って、ホテルで二人で飲んだ。
母と二人呑みしたのは、その時だけ。結婚に対する考えとか仕事とか妹ととかを話しながら。詳しい内容はあまり覚えてないけど。

ここに買いに行ったんだと思う。

なんだ。イイ旅友だったんじゃん。
もっと誘えばよかったな。
あと旅先でのツーショット写真、この記事の一枚目ともう1枚しかなかったよ。ふだんから風景写真ばかり撮ってたけど、ちょっと後悔してる。

ところで。

母にはもう一か所、行きたい外国があった。
ロシアのユジノサハリンスク
母は第二次世界大戦が始まった年の夏、ここで生まれた。
当時のここの名前は“樺太”。昭和22年に引き揚げるまで暮らしていたらしい。
それ以降は機会が無く、行けないまま鬼籍に入った。

膵がんの手術が終わって、ちょっと体調落ち着いたら連れて行きたいな~なんて思っていたけど、コロナ始まっちゃったし、母の体調は落ち着かなかったし、戦争始まっちゃったしで、叶わずじまい。

浜辺に咲いていたハマナスの花がとてもきれいだったと、よく話していた。

次回、母から聞いた樺太の記憶を書き起こしてみようかと思う。